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書評 「銃・病原菌・鉄」 文明の優劣は人種ではなく地理的要因に起因する。

 

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

銃・病原菌・鉄 上下巻セット

 

 

トランプ米大統領就任が決まってから、白人至上主義が吹き荒れている。一昔前には、優生学的な思想は社会のタブーだったのだが、時代は変わったものだ。

 

さて、人種によって、本当に優劣があるのだろうか?その疑問に社会人類学の立場から立ち向かったのが本書だ。まず、優秀であることが、文化や科学を花開かせ、広大な領土を領有することを意味するとしよう。確かに近代ヨーロッパからの彼らの発展は目を見張るものがある。彼らは新大陸を発見し、アフリカやアジアに植民地を建設し、19世紀末には世界のほとんどの領土を手に入れたと言って良い。それのみならず、科学技術を発達させ、産業革命を起こし、我々の生活は一変させた。なるほど、このような偉大な業績を上げてきた白人は確かに優れているのかもしれない。

 

でも、忘れてはならない。近代以前の彼らはアジア国家に遠く及ばなかったのだ。白人が優れているならば、歴史上一貫して優勢を保っていなければおかしい。また、IQテストをしても、白人とそれ以外の人種に明確な差異を見いだせない。

 

だとすれば、白人の偉大な業績をどう説明すれば良いのだろうか?その疑問に本書は答えてくれる。まず、ユーラシアが世界一巨大であることだ。巨大であれば、それだけそこに住む人間は多くなる。そして、イノベーションというのは確率的に起こるものなので、人数が多い大陸ほどイノベーションが起こりやすい。次に、ユーラシアが東西に広がっていることだ。東西の移動は南北の移動より気候の変動が少ないので容易である。このため、発見されたイノベーションが人の移動を通して共有されやすい。アフリカ大陸は、サハラ砂漠によって分断されている。北アフリカユーラシア大陸の一部と言って良いくらい古代ローマ時代から結びついている。数あるイノベーションの中でも、鉄の製法は、それを知った者の軍事力を著しく高めた。そして火薬と合わせて、現代の戦争でも使われる銃が作られた。

 

また、ユーラシア大陸は家畜に適した動物に恵まれていた。意外なことに家畜に適した野生動物は少ない。動物王国だと言われるアフリカで、ライオンやカバが家畜化されないのは、その飼育が難しいからだ。家畜化しやすい動物は群れで行動し、従順で、餌が安いものだ。ライオンなどは餌に肉をやる必要があるし、一歩間違えば自分が餌になりかねない。家畜の存在は、新たな力をヨーロッパ人に与えた。それは病原菌だ。病原菌というと、マイナスにしかならないと思うかもしれないが、新大陸侵略の際に、最強の兵器となった。ヨーロッパ人は古くから家畜と寝起きをしてきた。家畜とは不衛生なもので、様々な病原菌を内在する。それが世話を通じて人間に映るのだ。彼らは長い期間、病原菌にさらされ続け、多くの者が命を失ったが、生き残ったものは病原菌への抗体を手に入れた。そんな彼らが、新大陸に赴くと原住民のインディオは彼らの持ち込んだ病原菌にバタバタと倒れ、圧倒的に数で劣るヨーロッパ人は自らの手を下すことなく、侵略を進めることができた。

 

ここまで書いて、ユーラシア大陸に住む民族が非常に有利であることがわかったが、同じユーラシアの中で、なぜヨーロッパが最も栄えたのだろうか?それは、まず土壌が豊かなことだ。最古の文明である中東のメソポタミアは、土地が乾燥しており、文化が栄え、人口が増えるとそれを支えられるだけの食糧を生産できなかった。一方でヨーロッパは湿潤なため、永続的に農作物が取れた。だが、そうであれば同じように豊かな土壌を持つ中国がなぜ天下を取れなかったのだろうか?それは、中国が統一した王朝で支配されていたからだという。統一した王朝は反乱を恐れ、イノベーションの芽を摘んでしまうのだ。火薬を発明した中国で銃が発明されなかったのは、当時の王朝が銃を使った反乱を抑えていたからだ。日本も戦国時代に世界一の鉄砲保有国だったのが、徳川幕府が反乱を恐れて、製造を厳しく制限した。

一方でヨーロッパは小さな国に別れ、絶えず小競り合いを続けたおかげで、ちょっとでも有利になるイノベーションを貪欲に取り入れてきたというわけだ。白人の栄光は伝染病や戦争といった苦しみの上に咲いたものだといえよう。

書評 「権威主義の正体」未知への不安に漬け込む人心掌握術

 

権威主義の正体 (PHP新書)

権威主義の正体 (PHP新書)

 

 

権威主義に関して、第二次世界大戦後に社会心理学を中心に研究が進められてきた。多数の哲学者や学者を輩出してきた当時、世界で最も理性的な国とも言えるドイツが、なぜホロコーストのような野蛮な行動に及んだか、これを解明するためだ。近代ヨーロッパでは人間の理性は神から与えられたものであり、その理性に従えば、世界はより良くなるという思想があったが、ドイツの蛮行はその楽観的な考えに大きな衝撃を与えた。

 

それを解き明かすために、多くの心理学実験が行われたが、その中でも身の毛がよだったのが、ミルグラムの実験だ。この実験は被験者に電気ショックを与えるつまみを渡し、ガラス越しに見える人間がテストの解答を間違えた際に、罰としてショックを与えるというものだ。しかも、間違えるごとに電圧を上げていかなければならない。安心してもらいたいのはガラス越しの人間は実験関係者で、実際に電気が流れるわけではなく、その演技をするだけだ。何問か間違えて、電圧が上がってくると、ガラス越しの人間は頭を激しく降ったり、身をよだたせ、危険な状態になる。被験者が電気ショックをためらうと、横にいる監督官が「スイッチを押してください。」「押さなければ、実験を終えることができません。」「スイッチを押すしか選択肢はないのです。」と迫る。恐ろしいのは、被験者の内、70%が自責の念に囚われながら、苦しむ人間に対して最終的にスイッチを押したという事実だ。半数以上の人間が良心よりも服従を選んでしまったのだ。哲学者サルトルは、戦争に加担したものは、そうさせられたとはいえ、最終的に自らの自由で選んだといっている。本当に嫌だったら、殺されるのを覚悟で革命を起こすか、自殺をするかできただろうと。

 

サルトルの意見は極端だとしても、ミルグラムの実験は私たちに示唆を与えてくれる。それは、人間は未知の事象に関して、人の意見を聞き入れやすいということだ。実験を素人判断で止めるには勇気がいる。監督官がそう促すなら、彼の判断に任せてしまおうという感情だ。たとえ監督官でなくても、自分以外の大多数が自分と違う意見を持つと、自分の意見に自信が持てなくなる。この未知への怖れを利用すれば、人間は案外簡単に操作できる。この事実を知った者は、その力を元に自らの地盤を固め、その行動を増長させていく。この事を示す牧師マルチンメーラーの言葉を最後に記す。

 

なぜナチスを阻止できなかったのか-マルチン・ニーメラー牧師の告白-
 
ナチス共産主義者を攻撃したとき、自分はすこし不安であったが、とにかく自分は共産主義者でなかった。だからなにも行動にでなかった。次にナチス社会主義者を攻撃した。自分はさらに不安を感じたが、社会主義者でなかったから何も行動にでなかった。
それからナチスは学校、新聞、ユダヤ人等をどんどん攻撃し、自分はそのたびにいつも不安をましたが、それでもなお行動にでることはなかった。それからナチスは教会を攻撃した。自分は牧師であった。だからたって行動にでたが、そのときはすでにおそかった。

論評 トランプ氏当選は盲目的な道徳主義への警鐘だ。

大方のメディアの事前予想に反してトランプ氏が大統領選で当選をした。なぜ、このような事態に陥ったのか考えてみたいと思う。

 

これは、現代にはびこる盲目的な道徳主義への民衆の憤りを表している。道徳主義とは何か。精神分析学の創始者フロイトは、人間の精神を無意識、自我、超自我に分類している。無意識から、欲望などの様々な感情が沸き起こってくる。これは動物にもある脳の古い部分から引き起こされ、小動物はそこから沸き起こってくる欲望や感情をそのまま行動に移す。しかし、人間の脳は進化の過程で大脳と呼ばれる新しい部位を手に入れた。これは、古い脳から発する無意識を認識し、それを行動する。この認識し、考え、行動する存在を自我と呼ぶ。デカルトの「考える。故に我あり。」の自我だ。

 

さて、無意識に従うか、従わないかを考える際に、もし無意識に従わないことを決めたならば、何に従うことになるのだろうか?それは、超自我と呼ばれるものだ。無意識から自我に空腹だと知らせがくる。しかし、手元にはパンが一つしかない。これを食べてしまったら、3日間食べるものがない。今は我慢しよう。パンを食べたらなくなるという現象は紛れもない現実だ。因果律や物理法則といった自我を超えた存在、神とも呼べる超自我だ。

 

先のパンの例は単純だが、この超自我は、道徳観として変容を見せる。因果律や物理法則を厳密に考えると判断が間に合わないからだ。だから、人々はこうする事は正しいというパターンを道徳という形で作り上げる。

 

代表例が「移民は受け入れなければならない。」という道徳観だ。確かに、困っている人がいたら助ける社会であれば、人類全体にとって有益だ。しかし、一個人で考えてみれば、無意識の中に、「彼らに生活を何で俺たちの税金で賄うの。損だよ。」「犯罪率が増えて嫌だよ。」といった感情が芽生える。

 

今までは道徳観を盾に、「そんなことを言うのは、慈悲の心のない人間だ。」とか、「世界を知らない田舎者だ。」と罵られるのを恐れて声を上げてこなかった。しかし、そうして妥協していく中で社会に移民が溢れ、無意識からのシグナルが増大していき、自我が耐えきれなくなった結果が、今回のトランプ現象だろう。

 

しかし、アメリカ人の自我が爆発した結果、今回は多数派の白人だったおかげで、選挙という行動で現れたが、少数派が行うテロや暴動と根本的には同じだ。突発的なテロや暴動は、人々を抑圧する道徳観は破壊できるが、因果律や物理法則への根本的な対策ではない。国境の壁建設費をメキシコ人に払わせる具体的な方法も恐らくこれから考えることになるだろう。突発的に大統領になった彼にとって、こういった現実的な問題に冷静に対処できるかは甚だ疑問だ。恐らくは、そういった対処法に慣れた共和党議員がトランプを上手く操って、自分たちの望む政治をするだろう。

 

いろいろと問題のあるトランプ現象だが、人々を抑圧してきた、「グローバル化は正しい。」「移民は人道的に受け入れるべきだ。」といった盲目的な道徳主義に一石を投じてくれたことは間違いないだろう。

書評 「コンビニ人間」 - 「普通」を強要する世間の図々しさを体現した小説

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

2016年芥川賞を受賞した小説「コンビニ人間」を読んだ。日本に染み付いた、思想なく他人に追従する社会を、ここまで読者に突き付けてくれる小説はなかなかないだろう。客観的な視点で、日本人にこのような社会を示してくれた意味で本作は意義深いと思う。感想を言う前にあらすじを示そう。

 

世にいう空気というものが読めない主人公は、いわゆる「普通」に振る舞う方法がわからず、学校生活では変人扱いを受ける。

そんな彼女が学生の頃、ふとしたキッカケでコンビニバイトを始める。コンビニバイトはすべてがマニュアル化されており、それに従えば、世間が求める「普通」のコンビニバイトになれる。この目に見える「普通」を見つけた彼女は、水を得た魚のようにバイトに打ち込み、バイト内でも高い評価を受け、良好な人間関係を築く。

ひたすらバイトに打ち込み続け、月日が流れ、30半ばを過ぎる。彼女は今の生活に満足しているが、年頃を過ぎた彼女に周囲から奇異の目が向けられるようになる。結婚もせずに、バイト生活を続けている彼女が、世間から見て「普通」ではなくなったからだ。せっかく手に入れた「普通」が失われかけていることを感じ、彼女は焦りを感じる。そして、知人や妹から、この年頃の女性は恋愛、結婚をするというのが「普通」だと聞く。だが、彼女はコンビニバイトの生活が自分に合っており、それを崩したくなかった。

そんなある日、白羽という男性バイトが彼女のコンビニに入り、彼の教育係を任されることになる。彼は「普通」とは何たるかを知っている人間だが、それを強要する世間から逃げたいと考えていた。それゆえ、彼はバイトに身が入らず、やがて姿をくらましてしまう。

あんな使えない奴はほっとけと言う職場の声をよそに、教育係である主人公は、律儀にもバイトに復帰するように連絡をとる。そして、彼から世間から逃げたいという気持ちを聞く。そこで彼女はひらめいた。その男を家で「飼う」ことにしたのだ。この行動は両者にとって都合の良いものだ。白羽にとっては、部屋にいるだけで、餌がもらえるので世間に関わらなくても良いし、主人公は男性と恋愛中だと装え、このままコンビニバイトを続けていても「普通」でいられる。

しかし、同棲を続ける中で白羽はコンビニバイトを続ける彼女の「普通」ではない生き方に将来の不安を覚える。そこで、彼女を正社員につけようと、彼女に「普通」を強要し始める。彼女はその強要に折れ、身を裂かれる思いでコンビニバイトを辞め、無事内定を受ける。しかし、初出社にそれを不意にしてコンビニバイトに戻ってしまう。白羽はそんま彼女に狂気を感じ、去ってしまう。

 

作者の村田さんと主人公の彼女は、年齢も職業も同じだが、作者自身を描いたものではないと言う。ここまで飛び抜けた人間を描いたのは、その方が「普通」を求める世間をより炙り出せるからだ。主人公は持ち前の能力で、指針さえ示せば、それに的確に応えることができる。しかし、「普通」というあやふやで、年齢や状況でコロコロ変わる得体の知れないものに対して、翻弄されてきた。最後に彼女は吹っ切れ、変でもなんでも良いから、コンビニ人間としての道を歩むことにした。

怖いと思うのが、「普通」を強要する世間の図々しさだ。彼女のこうしたいという気持ちを全く聞き入れず、デリカシーのない言葉をあびせかけてくる。そして、その世間の主張の論拠が「みんながそうしているからという」なんの哲学も思想もないことだ。空っぽなのだ。

その世間をはねのけ、コンビニ人間として生きていくことを決めた主人公に、私を含めた多くの読者が勇気付けられたと思う。

映画 「pk」

インド映画 「きっと上手くいく 原題:3idiots」の監督と主演俳優が出演する新作。前作が良かっただけに日本公開日にすぐに鑑賞した。

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総じて期待外れだと言わざる負えない。まず、問題があるのはテーマを論争の多い宗教にしたことだろう。宗教問題を時間の限られた映画に収めるには難があったように感じる。主人公は神は信者に対して酷い行いをするはずはない、という一点で底の浅い宗教批判を繰り返していく。確かに高額なお布施や、不合理な儀式に対する悪徳な宗教家ならば批判はそれで片付くが、本気で神学に取り組んでいる宗教家になら軽く論破されるだろう。そもそも、映画に出てくる悪徳な宗教家なら、一回の若者が仕掛けたテレビ討論には応じず、メディアや自分の組織を使って相手をねじ伏せてしまうはずだ。学生運動の延長のような、おちゃらけた体制批判に見えて仕方がなかった。

 

そもそも、神は人間に対して思いやりをもつという発想から疑う必要がある。神は人間なんていう、ちっぽけな存在に気にも留めない。だから、災害や病魔で罪のない人間が苦しませ、努力が必ずも報われない理不尽を押し付けてくるものだ。そんな理不尽な中に法則性を見出し、人間がより快適に暮らせるようにするために、人類が発展させてきたものが宗教や哲学、果ては科学だといえる。であるならば、主人公の宗教批判をするならば、理不尽に打ち勝つ新たな価値観を pk に示してほしかった。しかし、結局は彼は神にすがり、その慈悲を求めるだけで、ご都合主義にも体よく問題を解決していってしまう。ちょっと、これでは納得できない。

 

娯楽作品として考えても、映画の冒頭で pk が宇宙人であることをバラさひてしまうことで、話の全体像がすぐにつかめてしまい、没入感が削がれてしまった。単純なストーリーなので、交通事故にあった記憶喪失の青年という体で物語を初めて、最後に宇宙であることが分かったほうが良い気がする。「きっと、うまくいく。原題: 3 idiots」を観て、インド映画に魅せられていたが、少し冷や水を浴びさせられた感じだ。

書評「自由をいかに守るか?ハイエクを読み直す」

 

 

格差社会が叫ばれて久しい。経済学もケインズ主義が台頭し、格差是正を唱えているが、敢えて格差社会を容認する経済学者ハイエクを扱った本書を読んでみた。

 

ハイエクの主張の中で際立つのは生れながらに持っている環境や才能や機会の格差ですら容認していることだ。金持ちの子と貧乏な子で環境や機会に差があっても良いだろうということだ。

 

生れながらに皆平等であるべきという世間で一般的に正しいとされている考え方に相容れない。そんなとんでも理論など、聞く価値もないし、腹立たしくも感じるが、読み深めると彼の理論にも一定の説得力がある。

 

この主張のもとにあるのは、平等を実現するには権力が必要で、それを行使する者への不信感が拭い去れないということだ。先の例ならば、貧富の差で生まれた環境に差が生まれるならば、国が経済を計画して、人びとに仕事を平等に仕事を割り振る社会主義社会を作れば、親の格差は無くなり、子の格差も生まれない。だが、平等と引き換えに人びとは自由を国に手渡してしまったことになる。即ち、国の計画のもと生きていかねばならず、それに逸脱した行為ができなくなる。

 

そして、計画する国に対しても不信感が募る。自由であれば、各人の行動の原動力は欲望に他ならないが、人間ではない国には欲望はない。このため、国はイデオロギーにその役割を求める。

「良い家に住みたい。」

「粗末な家で我慢し、余った力で社会主義のために重化学工業を発展させよう。」

「美味しいものを食べたい。」

「最低限の食事で我慢し、余った食糧を輸出して、その資金で社会主義を広めよう。」

 

このように、個人の欲望は置いて、イデオロギーを優先することになるが、人間は弱い者で、自分や家族の方が大事なのだ。であれば、国の計画者はイデオロギーにうまいこと自身の欲望を埋め込んでしまう。そもそも、イデオロギー自体、元を正せば、人びとの欲望が叶えるためにあるのだ。それが、人びとの欲望を押さえつけてしまっては本末転倒だ。

 

確かに平等は欲しいが、よくわからない外部に人生の主導権は取られたくはない。確かにハイエクは、自由経済を過信している帰来がある。イギリスのホームレスは、ドイツの中小企業経営者やソ連の技術者より自由だから、幸せだといっている。だが、ホームレスは好き好んでそうしているのではなく、職能がないから仕事ができず、仕方なくそうしているだけで、決して自由ではない。

 

しかし、昨今の盲目的な格差是正論議は注意してみて行く必要がある。平等のために、虎視眈々と利権を得ようとするものがいないかに常に気を配り、そもそも、自由と平等を何のために私たちは欲しているのか自問する良い機会だろう。

書評 「チャーチルの愛した日本」

 

チャーチルが愛した日本 (PHP新書)

チャーチルが愛した日本 (PHP新書)

 

 本のタイトルだけを見ると、最近流行り日本礼賛ブームに乗った凡庸な作品に思えるが、内容はチャーチルの両親の人生をも含む大変深いものだった。

 

特にチャーチルの母、ジェニーの波乱に富んだ人生には惹きつけられた。本書のタイトルも、母ジェニーが日本に旅をし、その内容をチャーチルが伝え聞いて、好感を持ったことに由来する。このジェニーの旅は、夫ランドルフ、即ちチャーチルの父の最後の旅路であった。というのも、ランドルフは一説には梅毒とも言われているが、病が脳にまで達し、錯乱状態に陥っていた。仮にも議員を務めてきた名士の落ちぶれた姿を、人目にさらすわけにはいかないという理由もあるが、病院にとじこめる訳でもなく、医師の制止を振り切って旅を企画するあたりジェニーの行動力を感じさせる。

 

夫のもしもの時のために、医師と棺を共にし、錯乱した夫との異例の旅行であったが、東京から京都までの旅行記に記される文章には、生き生きとした情景が感じられ、彼女の文才が見て取れる。チャーチルノーベル文学賞を受賞するほどの人物だが、疎遠だった父に手紙を書くように母が進めるなどの物書きとしての手解きを受けたのかもしれない。

 

母のこのような旅行記を受け取り、チャーチルも愛したとは言いすぎかもしれないが、多少なりとも日本に興味や好感を得たに違いない。日英同盟に関しても、彼は一貫して支持を続けてきた。一方で、そんな彼から見て、五一五事件や二二六事件で、変化していく日本の姿を見てこう述べている。

 

 「思慮に富んだ穏和な老政治家たち 」はつぎつぎに刃や弾丸の犠牲となり 、 「見識と経験のとぼしい急進的な青年将校たち 」が実権を握り 、全体主義国家主義を国民に押し付ける国となった。

 

犬養毅高橋是清といった、名政治家が暗殺されたにも関わらず、我々日本人は声を上げずに軍部の言いなりになってしまった。明治、大正時代に見せた老練な外交手腕もなりを潜め、戦争に突入して破滅を迎えていくことになる。

 

チャーチル本人のことを知るには、他にも書籍やドキュメンタリーがたくさんあるが、チャーチル家のとして歴史を追うには本書を読むのが良いだろう。