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書評「自由をいかに守るか?ハイエクを読み直す」

 

 

格差社会が叫ばれて久しい。経済学もケインズ主義が台頭し、格差是正を唱えているが、敢えて格差社会を容認する経済学者ハイエクを扱った本書を読んでみた。

 

ハイエクの主張の中で際立つのは生れながらに持っている環境や才能や機会の格差ですら容認していることだ。金持ちの子と貧乏な子で環境や機会に差があっても良いだろうということだ。

 

生れながらに皆平等であるべきという世間で一般的に正しいとされている考え方に相容れない。そんなとんでも理論など、聞く価値もないし、腹立たしくも感じるが、読み深めると彼の理論にも一定の説得力がある。

 

この主張のもとにあるのは、平等を実現するには権力が必要で、それを行使する者への不信感が拭い去れないということだ。先の例ならば、貧富の差で生まれた環境に差が生まれるならば、国が経済を計画して、人びとに仕事を平等に仕事を割り振る社会主義社会を作れば、親の格差は無くなり、子の格差も生まれない。だが、平等と引き換えに人びとは自由を国に手渡してしまったことになる。即ち、国の計画のもと生きていかねばならず、それに逸脱した行為ができなくなる。

 

そして、計画する国に対しても不信感が募る。自由であれば、各人の行動の原動力は欲望に他ならないが、人間ではない国には欲望はない。このため、国はイデオロギーにその役割を求める。

「良い家に住みたい。」

「粗末な家で我慢し、余った力で社会主義のために重化学工業を発展させよう。」

「美味しいものを食べたい。」

「最低限の食事で我慢し、余った食糧を輸出して、その資金で社会主義を広めよう。」

 

このように、個人の欲望は置いて、イデオロギーを優先することになるが、人間は弱い者で、自分や家族の方が大事なのだ。であれば、国の計画者はイデオロギーにうまいこと自身の欲望を埋め込んでしまう。そもそも、イデオロギー自体、元を正せば、人びとの欲望が叶えるためにあるのだ。それが、人びとの欲望を押さえつけてしまっては本末転倒だ。

 

確かに平等は欲しいが、よくわからない外部に人生の主導権は取られたくはない。確かにハイエクは、自由経済を過信している帰来がある。イギリスのホームレスは、ドイツの中小企業経営者やソ連の技術者より自由だから、幸せだといっている。だが、ホームレスは好き好んでそうしているのではなく、職能がないから仕事ができず、仕方なくそうしているだけで、決して自由ではない。

 

しかし、昨今の盲目的な格差是正論議は注意してみて行く必要がある。平等のために、虎視眈々と利権を得ようとするものがいないかに常に気を配り、そもそも、自由と平等を何のために私たちは欲しているのか自問する良い機会だろう。